昭和五十六年二月七日 朝の御理解


御理解第二十一節
 信心せよ信心とはわが心が神に向ふのを信心と云ふのじゃ神徳の中に居っても氏子に信じなければおかげはなしカンテラに油一杯あってもシンがなければ火が點らず火が點らねば夜は闇なり信じんなければ世界が闇なり


 「信心とはわが心が神に向ふのを信心と云ふのじゃ」と、同時に「シンなければ火が點らず」。自分の心が神と向うその事が信心なんだ。けれどもその信心もやはり自分の心の光、家の光になる程のものにならなければ、いうならば価打ちがない。ただ信心しとるというだけじあなくて、その信心が自分の心を明るくする広くする、豊かにする。又自分の周辺を明るくする。というようなシンでなからなければ信心の価打ちはない。そういう信心が集まりに集まって世の中を又明るくするる合楽で云われる和賀心時代を世界に、十三日会を世界に。本当にだから和賀心、それをシンにしての信心。又は人間凡天の事ですからどこにお粗末御無礼があるやら分らない。それを十三日会の精神で心から素直に詫びて次の信心に改まっていくといったような内容の人達が集まって始めて、社界を明るくする、社会の光ともなるという事になります。
 そこでお互いが頂いておる信心、我が心が神に向かておるその信心とはどこにどう向けておるかと、勿論生神金光大神天地金乃神様でありますけれどもそれをもっもっと広く具体的に自分の頂いておるシン所はどこなのかと。ただ金光様の御信心を頂いておるというのでなくて勿論自分の心の中に和ぎ賀ぶ心を和賀心を頂かせて頂く事の為にまあ信心をするけれども、その信心をお育て下さる、鍛えて下さるその神様はどこに置いておるかと。
 昨日研修の時に、私もこんな事は始めて聞きましたけれども、成る程そうだなあ、そうだなあとその思いを深くしております所ででございますが、昨日古川先生が発表しとりましたが、今度寒修行あけのあの先生の話を、座談会の時にお話になつたという事。合楽を評してまあいうなら教会長大坪を評して「徳者といったようなものではありません。徳者というのはやはり人、人間に云うのであってこゝの場合は親先生そのものが神徳」だと。それを聞いて私は本当に私自身がそう思うたんです。そうだなあ合楽の場合はそうだなあと思うたです。
 私の日々の信心というものをいつも思うてみて、例えば合楽で表われているという事はもう天地の尾や神様のそれと同じ働きが合楽ではあっておるのだおこっておるのだという事です。合楽の先生は徳者というのじあない。もう神徳そのものだと。その中にはだからいうならば雨もありゃ嵐もある降る日、照る日、曇る日なのです。それが天地なのです。いつも私の心がいうならばいわゆる照る日、曇る日ですけれども、教祖金光大神の教えに支えられてようやくへいせ居を保っておるというのがまあ合楽の実相です。
 ですからそういういうならば信心、そういう神様を頂いてのシンであり心に光であり、だからね、例えば心に光というような例えばそれが本当に信心なければ世界が闇なりといったような信心はそういう信心を基にして土台にして稽古をつんでいくと云う信心でなからなければまあ本当の意味においての世のお役にも世の光りにもなる事ではないように思います。今私のへやにかゝつております。軸は布施和尚の絵が書いてございます。俳画風の絵です。その讃に書かれておるのは、「天上界においては弥勒菩薩、地上界においては布施和尚」と書いてあります。天上界においては弥勒菩薩、地上界においては布施和尚、布施和尚のいうならお徳そのものが天上界の弥勒菩薩と同じだと。まあ先生云われる所の徳者というものではない、そのまゝが御神徳だと。私はそういうふうには頂くかなかったけれども、あの軸のお供えを頂いたときにその事を頂いたんです。
 『天上界においては天地金乃神地上界、地上においては大坪総一郎。今から考えてみると成る程一体だという事が分かります。一ぺん軸を皆さん見て下さい、そう書いてあるのです。天上界においては弥勒菩薩、地上界においては布施和尚。私の事を神様が大黒様というように表現して下さる。これは私がお広前に奉仕をしておる時の姿である。打ち出の小槌的なお徳を持ってそれを皆にまあ授けて下さる。私がこゝを下っていうならば部屋に下った時にはいうならば布施和尚の徳。
 いわゆる天地も降る照るがあったり照る日、曇る日があるという、なら照るから、曇るからというておかげではないという事ではない。ただ現実降ると照るがただ違うのだけれどもその内容は同じだと、こゝで云われる、こゝで居る時は三味線の調子でいうと本調子、あちらへ下ったら二上り又は三下り、布施和尚である。おなかを出してこうやって左団扇で楽にしておる姿でしよう布施和尚というのはけれどもそれもそのまゝ天地の姿なのでと。そういう意味の深いいうならば合楽教会で皆さんが御神縁を頂いてその御神縁がどう生かされておるかと、ただ病気が治りました。
 昨日も福島、いや福山の支部長さんの奥さんからお手紙わ頂いたんですけれども、本当に御主人が丁度お母さんが心筋梗塞で亡くなられる時と同じ症状でもう生きた者じぁないような状態になられた時に、もう兎に角福山で今度支部の大祭がある。その為の修行だと直感した。親先生その為の御修行としてあのお受け下さいと云うておかげを頂いたらねそのまゝすやすややすまれて目が覚められた時には平静に戻られたと。ねえ、というようなおかげそこに親先生と連ながり合楽と連ながる時にそういう働きがおこってくる。ただ親先生というただ合楽に御縁を頂いておるというだけではない。今度このたび福山支部で大祭が行なわれる、しかも支部長としてそれ前にとやこうの事があるはずはない。その前の修行だと直感しました。
 こう云っておる。その直感なんだ。合楽とのつながり、参りよりますから拝みよりますからだけではいけない。というようなわけであります。そこから生まれてくる信心であって、シンであり又は光であるというふうに思います。
   どうぞ